二人の夫が毒殺された女」
今、人吉では相良清兵衛(1567-1655)が大変クローズ・アップされている。彼はさてどんな人物だったのでしょうか?相良藩を救った偉い人?それとも藩主を蔑ろにした横暴な家老?あなたはどう思いますか?
平成25年は人吉城歴史館で相良清兵衛展が催された。平成25年度ひとよし花まる学園の講座1:とことん歴史学では「波乱万丈!相良清兵衛とその時代」の6回に及ぶ講義があった。人吉温泉女将会「さくら会」は『秘めたる愛の散策マップ』を作成し、観光客に配布している。そのマップにも相良清兵衛屋敷跡の地下室が登場する。地下室は何のために造られたのでしょうか?単なる井戸?それとも洗礼池?あなたの想像力が試されています。あなたも一度相良清兵衛屋敷跡の地下室に降りて想像してみてください。
今回は、相良清兵衛秘話の一つを述べたいと思う。
二つのお家とは、この人吉の相良家と薩摩の島津家。二つのお家騒動とは
1)相良のお家騒動は、相良清兵衛事件とお下の乱
2)島津のお家騒動は、島津久信事件
皆さんは、島津久信をご存じでしょうか?忠仍(ただなお)ともいう。鹿児島の人は知っているかもしれないが、有名ではない。祖父は島津以久(いくひさ)。以久は義久、義弘、歳久、家久らの従兄弟。この島津4兄弟はあまりにも有名だ。久信の父は彰久(朝鮮の役で29歳で戦死)、母は義久の娘。母・新城は有名。母が島津の御屋形様・義久の娘(次女)ということで(義久には嫡男がいなかったので)、久信は島津本家を継ぐ権利をもっていた。
関ケ原の戦いの後、日向の佐土原城は戦死した島津豊久に変わって、垂水の領主・以久が城主となった。以久は側室とその子・忠興を連れて佐土原へ赴いた。しかし嫡男・久信と正室・新城(義久の娘)は垂水に残った。久信と母・新城は、島津本家相続の未練があった。
このことが後のお家騒動の原因となった。後に久信(義久の孫)と忠恒(義久の娘婿)が義久の相続権を争った。義久も血の繋がる久信を可愛がり、藩主後継にしたかった。忠恒は義弘の子だから、義久の甥だ。血の繋がりはあるが、甥より孫が可愛いのだろう。義久の側近・平田増宗なども久信を推した。既に後継にほぼ決まっていた忠恒も、舅・義久の死ぬ1611年まで気が気でない日々を過ごしていたらしい。
1600年に島津本家の相続を争う島津久信と結婚した女性がいた。関ケ原の戦いで死んだ佐土原城主・島津豊久の妹(梗)である。彼女の父は、1587年に亡くなった家久である。以久ではない。南藤曼綿録では以久と書かれているが、間違いだ。歴代嗣誠獨集覧でも家久のことを、以久と誤記していた。この二つの歴史書はかなり間違いがある。全てを信じてはいけない。
1602年島津久信と梗とのあいだに嫡男・久敏が誕生した。二人は愛し合っていた?多分そうだ。にもかかわらず1608年4月二人は離縁した。何故か?多くの疑問が残る。梗はどんな心情で夫と息子と別れたのだろうか?多分泣く泣く断腸の思いで別れたのだろう。多分そうだ。たった3カ月後、梗は再婚した。信じられない。人吉の男と再婚した。何故か?記録が残ってないので想像するしかない。彼女はよくぞ再婚に同意したもんだ。従妹兄の島津忠恒は何と言って彼女を説得したのだろうか?梗は島津以久の娘ではない。初代・島津家久の娘だ。南藤曼綿録のおかげで、今なお以久の娘と思っている人が多い。訂正をお願いしたい。
あなたは誰と梗は再婚したと思いますか?この再婚は、第20代人吉城主・相良長毎と後に第18代鹿児島城主(薩摩藩主)となった島津忠恒がまとめた。忠恒は家久と改名した。徳川家康の家の偏諱だ。二人の家久がいるのでややこしい。間違えないように。
忠恒は、いずれ久信は死ぬであろうことを知っていたので、従兄妹の梗を久信と離縁させたのであろう。多分そうだ。忠恒の梗に対する配慮であろうが、梗の心情は誰も分からない。想像するしかない。6歳の可愛い盛りの我が子・久敏との別離はよほどの理由がないと納得できない。
梗の再婚相手は相良清兵衛の嫡男の内蔵助頼安。まだ若い。もちろん初婚。19歳。多分背が高く、美男子だったのだろう。私の勝手な想像だ。あてにならない。しかし、そうでないと、梗も納得しなかっただろう。再婚の梗より6歳下。梗にとっては無茶苦茶な結婚だった。この二人に愛はあったのだろうか?結婚後に愛を育んだかもしれない。二人に喜平次頼章も生まれた。この結婚で相良清兵衛の力は益々上がったのは紛れもない事実だ。城主を凌ぐようになった。後のお家騒動の遠因となった。
梗は舅・相良清兵衛の屋敷の地下室と夫・内蔵助頼安の屋敷の地下室に何度も降りたはずだ。そこで何をしたのだろう。あなたの想像力が試される。やれやれ。梗は義父・相良清兵衛のことをどう見たのであろうか?大人物?人格者?多分そうだろう。私の勝手な想像だ。あてにならない。
梗と内蔵助頼安の結婚4年後の1612年島津忠恒(家久)が人吉を訪れた。梗の従妹兄だ。梗の父の家久ではない。父・家久は既に25年前に亡くなっている。秀吉の九州征伐の時だ。前夫と無理やりに別れさせた従妹兄の忠恒ことを、梗はどう思っていたであろうか?憎んでいた?あるいは今では子ども・喜平次頼章にも恵まれ恨みの感情は消えていた?とにかく想像するしかない。
島津忠恒は、相良長毎夫妻、相良清兵衛、内蔵助頼安、梗らと青井神社で散学を楽しんだ。11歳になった長毎の嫡男・・頼寛が三輪の曲を演じた。忠恒はとても楽しんだらしい。相良家と島津家はとても昵懇だったことが分かる。
この25年後(1637)に、従妹兄の島津忠恒によって梗の前夫・久信が毒殺された。お家騒動が原因だ。前夫の死を既に天に登った梗はどう思っただろうか?
この3年後(1640)4月28日に、相良清兵衛の嫡男・内蔵助頼安(梗の2番目の夫)が急死した。毒殺されたとの口遊(くちづさみ)が消えない。多分そうだ。第21代人吉城主・相良頼寛が相良清兵衛の訴状案をまとめるたった3日前のことだった。あまりにも時期が良すぎる。7月7日起こったお下の乱の2カ月と9日前のことだ。一族がほとんど死んだお下の乱の事件を聞いて、人吉を離れ江戸にいた相良清兵衛は涙したであろう。多分そうだ。嫡男・内蔵助頼安が生きていればこんな悲劇は起こら無かったであろうと相良清兵衛は悔やんだ。9月5日江戸評定所対決で敗訴し、相良清兵衛は津軽へ流された。彼には泣く涙もなくなっていた。諦めの境地で津軽に旅立った。相良清兵衛の心情は察するに余りある。
幸か不幸か、12年前(1628)に梗はすでに亡くなっている。二人の夫の毒殺を知らずに、あの世に旅立っている。世界広しと言えども、二人の夫がともに毒殺された女性はいないだろう。多分いない。ともにお家騒動に巻き込まれての毒殺だ。何のお咎めも無く、喜平次頼章(梗と内蔵助頼安の子)が無事に薩摩に行けたのは、名門・島津の血統だからだ。多分そうだ。
「内山観音堂の『千手の局』伝説」
その昔、日本一の清流・球磨川の流れる球磨盆地の深田村の内山に仙右衛門という農夫が居た。今から500年も昔むかしのことだ。内山の霧深さは今以上だった。仙右衛門はとても働きものだった。仙右衛門は田、畑、山、川が生活の生業だった。蛋白源は山のイノシシと球磨川の鮎だった。炭水化物は米と麦と芋だった。野菜も新鮮だった。女房(おいね)との二人暮らしは貧しくとも食うに困らなかった。幸せだった。ただ仙右衛門夫婦には、子どもがいなかった。二人は子ども連れの親子を見るとたまらなく寂しくなった。
そこで、ある夏の朝に近くの内山観音堂の本堂の千手観音さんに「子どもが授かりますように」とお参りし祈願した。千手観音さんは見かけの如く優しい。その願いが叶い、女の子が授かった。仙右衛門夫婦が喜んだのは言うまでのない。毎月、千手観音さんにお礼に行った。仙右衛門夫婦がのさった(授かった)女の子は成長するにつれ、どんどん美しくなった。里人は、千手観音さんの申し子だと敬った。小野の小町ようだとか、かぐや姫のようだと噂した。噂は広まった。そして美しい彼女を見ようと、多くの人が遠くからやってきた。
「仙右衛門は球磨郡一の幸せもんじゃ」と来る人、来る人が言った。仙右衛門も「おいどんは日本一の幸せもんじゃ」と答えた。
ある晴れた日、近くの向町で、阿弥陀堂の落成法要があり、仙右衛門の娘も出かけた。しかし、あまりにも見目麗しき娘であったので、あろうことか薩摩から来たきこり(一説には巡礼者)にさらわれてしまった。そして、可哀そうなことに薩摩の坊津の遊女屋に売られてしまった。
そして、時が過ぎたある日、薩摩の殿様の島津貴久が「一日に和歌100首(一説には1000首)詠めるものがいれば、側室に迎えよう」と領民に募った。驚いたことに、唯一人だけ、一日に和歌100首を詠める女がいた。さらわれたあの遊女だった。遊女はお城に召しだされた。その遊女の美しさに島津の殿様は一目ぼれしたのだった。見事な和歌を詠む教養の見事さもあって、約束どおり殿様の側室となった。
側室は千手の局と名乗った。千手の局は、寵愛を受け、めでたく殿様・島津貴久の四男を出産した。後の家久である。次兄・義弘に負けず劣らずの武勇の誉れ高き家久である。正室にはすでに三人の男子がいた。義久、義弘、歳久である。
一方、深田村の内山では、愛娘をさらわれた仙右衛門と女房・おいねは、嘆き悲しみ、半ば狂ったように、東に西にと、愛娘を探し回った。二人は噂をたよりに薩摩に行った。おいねは薩摩の殿様の腰元の女中となって、愛娘を探した。
内山観音様のお陰か二人の苦労が実り、3年後の春、殿様・貴久の梅花の宴で、母娘は偶然にも再会することができた。二人は、その時抱き合って感涙にむせた。こんな伝説が深田村の内山に今なお残っている。
千手の局の母は、南北朝時代、上相良(多良木)の相良経頼の弟であった肱岡(肥知岡)氏の出身と伝わる。深田村の内山伝説の仙右衛門の妻・おいねのことだ。武士の娘が、農夫の嫁とは信じられない。確かに矛盾がある。室町時代の文安5年(1448)、上相良(多良木)の相良頼観(よりみ)が山田城主・永留長続(第11代相良長続)に滅ぼされたおり、肱岡氏は薩摩に逃れて土着したらしい。その肱岡氏の一人の娘が、島津家家老の本田丹波守親泰に嫁いだ。そして生まれた女の子が千手の局だ。
しかし、夫・親泰が戦死したので、母娘はかっての母の故郷であった球磨郡深田村の内山に縁故を頼って、越してきたらしい。
ここに更に二つの矛盾がある。千手の局の父親は、仙右衛門?それとも本田丹波守頼泰?どちら?矛盾する。千手の局は、何処で生まれたのか。薩摩?それとも深田村の内山?伝説だから間違いはあるだろう。矛盾だらけだ。これも仕方がない。
肱岡氏の娘が、島津家の家老・本田丹波守頼泰と結婚して、千手の局が生まれたことは事実だろう。多分そうだ。深田村の内山出身の母をもつ千手の局があまりにも立派な玉の輿に乗ったのでこんな伝説が内山に生まれたのだろう。多分そうだ。私の勝手な想像だ。
いづれにしても、千手の局の母方は、深田村の内山に縁故のある肱岡氏の娘だろう。多分そうだ。千手の局は、島津貴久の側室となり、四男・家久を生んだ。これも確かだろう。多分そうだ。鹿児島県伊集院の破鞋庵跡と言う所に「貴久後室花室清忻大姉の墓」と刻まれた古い墓がある。地元では肱岡氏女の墓と言い伝えられている。これも事実だろう。多分そうだ。
天正一五年(1587)五月八日島津義久(貴久の嫡男)が泰平寺で豊臣秀吉に下った。その時、義久の重臣の伊集院忠棟、喜入季久、町田久倍、平田光宗、島津忠長、本田親貞が相次いで秀吉との拝謁を許された。
この本田親貞こそ、千手の局の父・本田頼泰の一族に違いない。多分そうだ。日向・佐土原城主・島津豊久の家老・本田城之助と本田加賀右衛門兄弟もその血統だろう。多分そうだ。
日向・佐土原城主・家久(豊久の父)の側近で弓大将・軍配役だった肱岡南覚坊およびその嫡男・肱岡豊前兵衛は、千手の局の母方の一族だろう。多分そうだ。球磨郡から薩摩に移り住んだ一族だ。
千手の局の孫(初代佐土原城主・島津家久の三女・梗)が相良清兵衛の嫡男・内蔵助頼安の嫁になった。1608年7月4日のことである。縁とは不思議だ。ここで千手の局と相良清兵衛はようやく繋がるのだ。やれやれ。
千手の局の孫は悲劇の女性だ。初めの夫の島津久信は、毒殺された。二番目の夫の相良内蔵助頼安も毒殺されたとの風説がある。お下の乱の直前だ。病死にしては、あまりにも時期があう。多分毒殺だろう。
伝説を蔑ろにしてはいけない。伝説のなかに真実が潜んでいることも多い。球磨郡深田村の内山観音の「千手の局」伝説でした。今度のお彼岸に是非お越しあれ。あなたも深田村の内山観音堂の千手観音さんに祈願すれば玉の輿に乗れるかもしれませんよ。